茶道の有用性

 

 

お茶席での一コマ。

 

花嫁修業にお茶を、とか


作法を学ぶのにお茶、とか


そういった型にはめこまれるのは大嫌いな性分で、

 

私が中学生のときに


本格的に茶道に復帰した母の稽古を


「こんなおままごとみたいなこと、何が楽しいんだ」


と横目に見て、いつも出かけていた。

 

 

学生時代から、


やれ展示会だといえば


呉服屋の雑務と呼ばれることを一通りした。

 

母は厳しかった。


こと仕事となると、父も容赦なかった。

 

少しでも仕事が遅いと怒られたし


失礼があったらしっかり叱られた。

 

私自身、


「呉服店をして、うちの家族は食べさせてもらっている」


という自負があったから


お客様に全力でご対応ができないと、とても悔やまれた。

 

呉服屋で、お一組のお客様のお買い物というと


そのころ、平均しておよそ100万円。

 

それに見合う人間でないと


当たり前だけど、売れない。

 

普段は相当ズボラだけど


店に出るときは


服装、身だしなみ、


身のこなしや言葉遣いに気をつけ


父と母の動きとお客様の動きやおきもちを察して、自分の立ち位置を調整した。

 

そういうことを、ひとつひとつの接客から120%吸収できるよう努力した。


それくらいいつも、焦っていたし、本気だった。

 

それがお金をいただくこと。


お客様へ感謝のきもちを伝えることだと思っていた。

 

そうしてずいぶん時は過ぎ


20代半ばになった。


周りの友人で茶道に興味を持つ子が増えて、


本腰いれて呉服屋をはじめていた私は、


重い腰を上げてようやく、茶道と向き合った。

 

驚いた。


苦労して積み上げた、自分なりの接客のノウハウや立ち居振る舞いが


道理にかなって、ほんの一服のお茶が点つひととき、その場に集約されていた。

 

ここでようやく


「作法を学ぶのにお茶」


の意味がわかった。

 

たしかに、はやい。
(もちろんそのセンサーがあれば、だけど)

 

お茶はすばらしいよ、という日本礼賛ではなく


ただシンプルに、とても実用的で有用性のあるものが、文化になったのだな、と思うのです。